6-3. 百太郎と幸野溝(こうのみぞ)
♪ 遥か彼方の空遠く 子供の頃の夢を見た ホグラシビンチャ あの百太郎
土手の柳はホタル宿 あゝふるさとは遠ざかる 水浴び子らの姿なく ♪
この歌詞は、筆者が岡原村の閉村記念として作った「夢故郷」の中の一節である。
百太郎には、ホグラやシビンチャがおり、夏は人や馬が水浴びをした。土手には川ヤナギが生えていて、夏の夜はホタルの止まり木であり、宿り木になっていた。この百太郎は川なのに、百太郎川とは言わず、溝なのに百太郎溝とも呼ばない。人柱にされた百太郎のいう人の名前のままである。以下、今から300年も前に、先人たちが山野を開削し、球磨盆地を豊かな水田地帯に変えた二つの人工の川(溝)のことを紹介したいと思う。
人が作った川(溝)は二つと言ったが、大きな工事のものとしては、実は三つある。百太郎溝と幸野溝に加えて、あさぎり町の深田や錦町の木上地区を潤す木上(きのえ)溝である。
三つの川(溝)は球磨川を取水口としている。球磨川は周知のとおり、その源を球磨郡水上村と宮崎県の椎葉村の境にそびえる標高1489mの銚子笠(ちょうしがさ)に
発し、津留川、井口川、免田川、胸川、万江(まえ)川、山田川、川辺川など20幾つもの川を合わせて人吉球磨盆地をほぼ西に向かって貫流し、球泉洞あたりから北に転じて山間の狭窄部を下り、八代平野に出て不知火海(八代海)に達する。総延長115km、流域面積1880キロ平方メートルの大河である。この三つの人が作った川(溝)の築造年代をまとめたのが表1である。
表1. 百太郎溝・幸野溝・木上溝の築造年代 |
まず、百太郎(溝)のことであるが、百太郎堰の築造開始は鎌倉時代とも言われている。しかし、あれだけ広域にまたがる工事は労力や資材の調達など、相当な権力を有する体制下でなければ遂行できないはずである。よって、人吉藩としての実質的支配ができたころ、つまり、人吉城の建築が始まった慶長12年、1607年頃の江戸時代初期、「水を治めるものは国を治める」ことになったのではないかと思う。表1を見るとわかるように、百太郎溝と幸野溝の二つの川は、開始時期こそずれているが実質的にはほぼ同じ時期(1705年頃)に完成している。川幅を大きくすれば一本でよかったはずなのに、なぜ二本にしたのか、初めから幸野地区からの取水はなぜ出来なかったのか不思議であった。そのわけは幸野地区の地形と標高にあったのかも知れない。球磨川からの取水口である幸野堰の標高は203mほどであるが、ここから約2km先の下流域には小高い台地(標高230m位)がある。この台地の下に、幸野溝の倍以上の水量を通すトンネルを掘削する技術は、当時としてはなかったのだろう。
図1. 球磨盆地の横断面(黒原山~3町村境界点)の標高 |
図1は、あさぎり町岡原の黒原山(標高1017m)から三町村(多良木町・あさぎり町・相良村)の境界点までの標高を示したもので、球磨盆地の横断面である。この断面位置での球磨川の標高は147mであり、盆地の底を流れている川であることがわかる。球磨川の幸野溝堰の標高は前述のように200数メートル、百太郎堰の標高は約170mである。図1における幸野溝の標高(▼)は、195m 百太郎の標高(▼)は165m、幸野溝の川幅が広く、深い溝であったならば流水量も増え、百太郎溝は要らなかったと思えてならない。しかし、前述のトンネル工事の困難さの他に、球磨川幸野堰からの取水量に限界があったようである。
川が盆地の底を流れていては、川より高いところの田畑を自然流で潤すことはできない。この事実が二本の川(溝)開削の原点である。つまり、百太郎(溝)が初めにできて水路としての運用が始まると、その恩恵の大きさに領民は驚いたことだろう。でもその恩恵は、百太郎(溝)が通っている標高よりも低い農民たちである。現在の百太郎堰を図2に示すが、地点の標高は170mである。標高170m以下の地点を通る水路となって錦町の標高150mの原田川に達する。百太郎の水路から球磨川までの領域は灌漑農業域となるけれども、百太郎よりも高い地域ではポンプアップでもしない限り利水の恩恵を受けられない。
図2. 百太郎堰(多良木町) | 図3. 幸野溝堰(水上村) |
当然の願望として、百太郎堰より高地での取水が計画され幸野溝堰の築造が実行された。図3は現在の幸野溝堰とダムである。ここの標高は203mである。幸野溝は人吉球磨盆地の南縁を通る県道43号線(錦―湯前線)に沿っており、百太郎までの田園を潤している。百太郎溝の灌漑面積は1500ha、幸野溝の灌漑面積は1386ha、合わせて2886haの原野が今は実り豊かな田園となっている。百太郎溝も幸野溝も竣工300周年を過ぎたが、改めて先人の苦労を偲び先見性に感謝すべきであろう。特に、百太郎堰の凝灰石樋門の築造に当たっては、百太郎の人柱伝説が伝えられているが、この伝説には工事の困難さが凝縮されている。なぜなら、1669年から1712年までの期間でさえ、球磨川は5回ほど氾濫し、人吉大橋や大橋が流失し、青井阿蘇神社の楼門が1mほど浸水したことが二度ほどもあったとの記録がある。こういった大雨や洪水によって建設半ばの堰は何度も破損し決壊したであろうことは容易に想像でき、当時としては、水神様のお告げにすがるのも無理からぬ話である。300年以上にわたる激流に直撃された旧樋門の損傷跡は今でも痛々しい。百太郎公園を訪ねた折りにはぜひ見てほしい百太郎さんの脛(すね)傷跡である。
図4. 百太郎之碑 | 図5. 木上溝・石坂堰(あさぎり町深田) |
多良木町の慈願寺には、百太郎堰の築造と溝の開削にあたり人柱になったという百太郎の供養碑が建っている。
図4がその「百太郎之碑」であるが、碑文には「南部利水計画に基く百太郎大改修に際しその樋門の一部を移し開鑿当時人柱となりたる百太郎の供養と五穀豊穣の願いをこめてこの碑を建立す」とある。百太郎も幸野溝も、球磨川の分身となって球磨盆地の南縁を流れ、力の限り大地を潤し、やせ細った狭い溝となって元の球磨川に戻っていく。
図5は、宝暦9年、1759年に設けられた現在の木上溝取水口の石坂堰である。場所は、あさぎり町須恵石坂、深田北との境界付近である。標高141mの取水堰より県道33号線に沿って下流に流れ、深田小学校の真下を潜り抜け、深田西の古町あたりからは最後の隧道に入り、錦町の平川地区で地上に出て球磨川に注ぐ。この間の高低差16m、隧道の合計長さ790mを含め、木上溝の総延長は約5キロメートルほどである。
寛永年間(1624~1645年)の人吉藩では2万1千石の新田開発がなされているが、これは百太郎溝の第1期工事が完了していた頃であり、その恩恵とみるべきであろう。次回に述べる予定であるが、明治初年、明治政府は天草から人吉球磨地方への開拓民の移住」政策を実施し、球磨郡にも数百人の開拓民が移住してきた。このような政策が実施された背景には球磨盆地の灌漑用水路が完備し、明治初年には豊穣の盆地平野が整っていたことが知られていたからであろう。
♪ 不毛の土に水を引き 豊かな郷に育んだ 人の恵みを仰ぐとき
われら岡原 中学の 使命は深く 胸にしむ ♪
これは旧岡原中学校の校歌で、校歌の作詞で有名な山口白陽氏(本名:山口経光)の作詞の歌である。♪不毛の土に水を引き、、、とは、百太郎溝や幸野溝などの用水路工事のことではないだろうか、中学生に限らず、球磨人は先人の労に思いを寄せ、その先見性のある企画と実行に敬意を表すべきである。農林水産省は平成28年11月8日、歴史的価値のある農業用水利施設を登録する「世界かんがい施設遺産」に、日本国内から幸野溝・百太郎溝水路群などを選んだと発表した。